■今回取り上げる話
この連載では、戦争や安全保障をめぐる思想を手がかりに、ウルトラマンを読んできました。ですが、その根にあるのは「人はなぜ、どのように傷つけ合うのか」という、もっと広い、暴力そのものへの問いです。今回はその根のほうへ一歩降りて、戦争を含むより大きな「暴力」の視点から、この一話を読んでみます。
『帰ってきたウルトラマン』「怪獣使いと少年」は、差別や群衆心理の恐ろしさを描いた作品として語られることが多い回です。それは、この作品の確かな一面です。ですが、この一話には、ほとんど語られないもう一つの顔があります。
それは、誰も手を下していないのに、一人の命がすでに奪われかけていた、という事実です。
メイツ星人を最終的に撃ち殺したのは、暴徒であり、警官の銃弾でした。ですが、彼を殺し「つつあった」のは、群衆が現れるよりずっと前から、別のものでした。地球の、汚れた空気です。
このときの殺し手は、誰でもありません。工場であり、煙であり、それを生み出し続ける社会のしくみそのものです。怪獣でも、暴徒でもない、この見えにくい暴力のほうから、今回はこの一話を読んでみます。
■今回のテーマ
メイツ星人を殺したものは、二種類ありました。
ひとつは、誰が手を下したのかを名指しできる暴力です。暴徒の凶行、警官の銃弾。殴る、撃つ、殺す。私たちが「暴力」と聞いて思い浮かべるのは、たいていこちらでしょう。
もうひとつは、引き金を引く者のいない暴力です。彼を蝕んだ汚れた空気には、加害者がいません。にもかかわらず、人は確実に損なわれていく。貧困や格差のように、社会のしくみそのものが、本来生きられたはずの生を奪っていきます。加害者がいないがゆえに、それは「暴力」として認識されにくい。ですが、しばしば、誰かが手を下す暴力よりも多くの命を、静かに削っていきます。
この二つを、個人的暴力と構造的暴力という言葉で分けて論じたのが、平和学者ヨハン・ガルトゥングでした。
「怪獣使いと少年」が鋭いのは、この二つを、同じ画面の中に並べて見せたことです。
目に見える暴力は、わかりやすい。怪獣ムルチの暴走、暴徒の凶行、そしてそれを倒すウルトラマン。誰もがそちらに目を奪われます。ですが、その裏で、もっと早くから人を殺していたものがあります。工場の煙です。メイツ星人は、地球の大気汚染に体を蝕まれ、自分の宇宙船を浮かび上がらせる力さえ失って、帰るに帰れなくなっていました。怪獣でも、暴徒でもありません。彼を地上に縛りつけ、衰弱させていたのは、加害者なき構造的暴力だったのです。
人は、見える暴力に気を取られ、見えない暴力を見落とす。彼が繰り返し警告したのも、まさにこのことでした。
しかも、彼の暴力論には、もう一段深い核があります。この二つは、ただ並んでいるのではありません。構造的暴力は、しばしば直接的暴力の土壌になります。社会のしくみが人から余裕を奪い、弱い立場の者を底へと追いやるとき、その歪みは、やがて目に見える暴力となって噴き出します。メイツ星人を蝕んだ汚れた空気を生んだのと同じ社会の歪みが、人々の心からも余裕を削り取り、最も弱い者――孤児の少年と、病んだ異邦人――へ向かう集団の暴力を、静かに準備していたのです。暴徒の凶行は、どこからか突然湧いたのではありません。構造的暴力という土壌から咲いた、毒の華でした。
■ストーリー
河原の廃屋に、天涯孤独の少年・良が暮らしていました。彼とともにいたのは、メイツ星人です。侵略者ではありません。一年前、環境調査のために地球を訪れたとき、嵐の夜に怪獣ムルチに襲われていた良を助け、そのムルチを念力で地中に封じて、親子のように暮らしてきたのです。
ですが、その体は、すでに地球の汚れた空気に蝕まれていました。宇宙船を地中から浮上させる力を失い、星へ帰ることもできない。彼は、静かに病んでいました。誰に殴られたわけでもなく、ただ、この星の空気によって。
やがて人々の恐怖が暴徒を生み、メイツ星人は銃弾に倒れます。その死とともに封印が解け、怪獣ムルチが復活します。
ムルチは、工業地帯の街を破壊し、火を噴いて逃げ惑う人々に迫ります。その暴れ場所こそ、メイツ星人を蝕んだ排気ガスの、まさに出どころでした。まるで、姿を持たなかった暴力が、ようやく怪獣という形を得て、自らの出どころのただ中で暴れているかのようでした。
雨の中、ウルトラマンはムルチを倒します。ですが、倒したところで、何が戻ったというのでしょう。
■現実世界の話
加害者のいない暴力、という言い方は、抽象的に聞こえるかもしれません。ですが、それは現実に、繰り返し起きてきたことです。
この回が放送された1971年は、日本が公害の只中にあった時代です。工場の排水や排煙が、そこに暮らすだけの人々の体を、長い時間をかけて蝕んでいきました。水俣病は、その象徴です。誰か一人が手を下したわけではありません。ですが、確実に人が病み、亡くなっていきました。そして被害者たちは、自分を蝕んだものが「暴力」であり「被害」であると認められるまでに、長い年月を闘わなければなりませんでした。加害者の顔が見えないがゆえに、その傷は、なかなか暴力として扱われないのです。
メイツ星人を蝕んだ「汚れた空気」は、この現実の、そのままの影でした。彼は宇宙人の姿をしていますが、彼を殺しつつあったものは、まったく地球的な――そして、まったく人間がつくり出した――暴力だったのです。
■この話の意味
ウルトラマンというヒーローは、本質的に、目に見える暴力に答えるために存在しています。目に見える脅威――怪獣――が現れ、それを叩き、倒し、「平和」が戻る。これが、この種の物語の基本の型です。
ですが、その「平和」とは何でしょうか。
怪獣が倒され、街が静けさを取り戻す。たしかに、目に見える暴力はやみました。けれど、戻ってきたのは、その「やんだ」だけの平和です。汚れた空気を生み続ける社会の歪み――もっと深いところにある暴力は、何ひとつ取り除かれていません。
「怪獣使いと少年」が突きつけるのは、まさにこの落差です。ウルトラマンがムルチを倒しても、メイツ星人はもう還りません。工場は煙を吐き続け、空気は汚れたままです。良の孤独も、何ひとつ晴れない。倒せたのは、目に見える怪獣だけ。彼を本当に蝕んでいた見えない暴力のほうは、手つかずで残ります。
ヒーローは、殴れる敵にしか勝てません。殴る相手のいない暴力の前で、ウルトラマンは無力なのです。そしてこの物語の最も静かで残酷な点は、その無力さを、ヒーローを負けさせるのではなく、勝たせることで描いてみせたことにあります。怪獣を倒し、街を救い、それでもなお、本当の暴力は終わっていない――その後味の悪さこそが、この回の核心です。
少年は、嵐が去ったあとも、地面を掘り続けます。彼が探しているのは、汚れた空気さえなければ、まだ浮かび上がったはずの宇宙船です。掘っても掘っても、それは出てきません。見えない暴力は、そうやって、終わったあとも人を縛り続けます。
メイツ星人を本当に殺したものは、怪獣でも、暴徒だけでもありませんでした。それは、誰も手を下さないまま人を蝕んでいく、私たち自身がつくり出した構造そのものだったのです。