■今回取り上げる話
一体の怪獣が、国際平和会議の万国旗を掴みながら、息絶える。
『ウルトラマン』第23話「故郷は地球」のラストである。
この怪獣・ジャミラは、もともと人間だった。
国家の威信を背負って宇宙へ飛び立ち、そして見捨てられた、一人の宇宙飛行士である。
「故郷は地球」が描くのは、単なる怪獣との戦いではない。
国家は、自らが犠牲にした人間に対して、どのような責任を負うのか。
この回は、その問いを正面から突きつけてくる。
■今回のテーマ
戦争や国家間の競争は、人々を危険な任務へと送り出す。
命を落とす者もいれば、帰還できなくなる者もいる。
そのとき国家は、その犠牲者に対して――救い出すのか、償うのか、顕彰するのか、それとも見捨てるのか――という選択を迫られる。
犠牲を生み出すことだけが、問題なのではない。
その犠牲者と、国家がどう向き合うのか。
ジャミラの悲劇は、この問いをそのまま怪獣の姿に変えたものである。
■ストーリー
東京で国際平和会議の開催が迫るなか、出席者を乗せた旅客機や船舶が、見えない「壁」に激突したかのように、次々と墜落・沈没していく。
調査に乗り出した科学特捜隊は、攻撃の正体が「目に見えないロケット」であることを突き止める。
イデ隊員は徹夜で装置を開発し、スペクトルα・β・γ線でその姿を可視化。ジェットビートルの攻撃で、ついにロケットを撃墜する。
だが、墜落した機体の中から現れたのは、一体の怪獣だった。
その怪獣こそ、ジャミラである。
ジャミラは、もとは某国の宇宙開発計画に参加した宇宙飛行士だった。
宇宙船の事故で、水も空気もない未知の惑星へ漂着し、祖国の救助を待ち続けた。
しかし、救助は来なかった。
いや、正確にはこう言うべきである。
その国は、科学のために人間を犠牲にした事実が世界に露見することを恐れ、事故そのものを隠蔽したのだ。
ジャミラは「待たれなかった」のではなく、「なかったこと」にされた。
過酷な星で生き延びるうちに、その身体は怪物へと変わり果てた。
やがて自らを見捨てた地球への復讐を誓い、自力で帰還し、よりにもよって国際平和会議を襲おうとする。
その正体――彼が人間であること――は、パリ本部から派遣されたアラン隊員によって明かされる。
それを知った科特隊は、苦悩する。
とりわけイデ隊員は、「俺はやめた、ジャミラとは戦わない」と、迎撃そのものを拒んでしまう。
見えないロケットを暴く装置を自ら作り上げておきながら、相手が人間だと知ったいま、かつて人類のために宇宙へ向かった者を、怪獣として葬らねばならない――その理不尽に、彼は耐えられない。
それでも会議を守るため、迎撃は決断される。
最後はウルトラマンとの戦いとなる。水を浴びたジャミラは、もがき苦しみながら泥にまみれ、平和の象徴である万国旗を掴みながら、力尽きるのだった。
(事件のあと、科学特捜隊は彼の墓標を建てる。その墓碑が何を語り、何を覆い隠すのかについては、別稿「ジャミラの墓標は何を語るのか」に譲る。)
■現実世界の話
人を危険な任務へ送り出し、その後に見捨てる――これは、フィクションだけの話ではない。
戦場へ向かった兵士。危険な現場に立たされた技術者。国家的な事業に身を投じた人々。
現実の歴史でも、国家のために犠牲を払った者が、事が済んだのちに十分な支援を受けられず、やがて社会から忘れられていった例は、少なくない。
体を壊した者。心を病んで還ってきた者。
その多くは、補償からも、記憶からも、静かに外されていった。
国家は、犠牲を求めるときには「国のため」と語る。
だが、その犠牲者に報いる段になると、しばしば口をつぐむのである。
■この話の意味
この回が鋭いのは、ジャミラが最初から侵略者ではなかった点にある。
彼の悲劇は、宇宙事故そのものにあったのではない。
その後、国家が彼をどう扱ったか――救わず、償わず、顕彰もせず、なかったことにした――その対応にこそあった。
もし救い出されていたなら。
もし、せめて責任を果たされていたなら。
ジャミラは、怪獣にならずに済んだのかもしれない。
国家は、犠牲を生むことからは、逃れられない。
危険な任務に人を送り出すかぎり、帰れない者は必ず出る。
問われるのは、その先である。
救い出すのか。償うのか。顕彰するのか。それとも、なかったことにするのか。
ジャミラの母国が選んだのは、最後の道だった。
そして見逃せないのは、この問いを作品の外から持ち込む必要がない、という点である。
物語の中で、すでにイデ隊員が、それを体現しているからだ。
かつて人類のために宇宙へ向かった者を、怪獣として葬る――その理不尽に、イデは迎撃そのものを拒みさえした。
国家のために使い捨てられ、そして忘れられていく者。
ジャミラは、その象徴だった。
「故郷は地球」が突きつけるのは、怪獣をどう倒すか、ではない。
国家は、犠牲にした人間に対して、どのような責任を負うのか――半世紀以上前のこの一話は、いまも答えの出ていないその問いを、静かに問いかけ続けているのである。