■今回取り上げる話
はじめにお断りしておくと、「シン・ウルトラセブン」は、まだ正式に発表された企画ではない。『シン・ウルトラマン』の続編構想として語られてはいるものの、現時点では、あくまで「もし作られたら」という想像の段階にとどまっている。
そしてもう一つ、先にはっきりさせておきたいことがある。本稿は、名作「超兵器R1号」を批判するものではない。むしろ逆である。半世紀を超えて語り継がれるこの一編に深い敬意を抱いているからこそ、その先にどんな物語がありうるかを、想像してみたいのだ。
題材は、『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」。超兵器開発の危険性を描いた名作として知られる一編だ。地球防衛軍が開発した超兵器R1号によってギエロン星が破壊され、その結果としてギエロン星獣が誕生する。物語の終盤では、より強力なR2号の投入までもが議論される。
本作のメッセージは明快で、そして力強い。強大な兵器は、予想外の破局を生む。だからこそ、人は慎重でなければならない――。この警鐘は、半世紀を経たいまも、少しも古びていない。
そのうえで、現実の安全保障という観点から見たとき、この作品には、あえて踏み込まれなかった問いが一つある、とも感じる。「なぜ国家は、危険と知りながら、兵器を持ち続けるのか」。これは原作の欠点ではない。むしろ、原作が一つの主題を鋭く描き切ったからこそ、その隣にもう一つの問いがくっきりと浮かび上がってくる、ということである。もしシン・ウルトラセブンがこの題材を受け継ぐのなら、私は、この問いにも光を当ててほしいと思う。
■描かれなかったテーマ
兵器は危険である。核兵器であれ、生物兵器であれ、作中のR1号のような超兵器であれ、その危険性そのものを否定する人は少ないだろう。
しかし現実の国家は、その危険性を知りながら、なお軍事技術の開発を続けている。なぜか。
ここで思い出したいのは、作中のR1号そのものが、もともと「宇宙からの侵略に対する抑止力」として開発された兵器だった、という点である。つまり「持つことの理由」は、物語の出発点にすでに置かれていた。原作はその設定を踏まえたうえで、あえて、兵器が生んだ破局の側に焦点を絞っている。「持たないことの危険」という論理は、物語の射程の外に、意図的に置かれていた。それは作品の明確な選択であり、その選択の潔さこそが、あの鋭いメッセージを生んだのである。
近年、アレクサンダー・C・カープとニコラス・W・ザミスカは『テクノロジカル・リパブリック』のなかで、自由主義国家が先端技術の開発を怠れば、より攻撃的な国家に対して脆弱になると論じている。彼らによれば、技術力と軍事力と国家の安全は、切り離すことができない。平和を保つためにこそ、一定の軍事技術を保有し続けなければならない、というのである。
現実の安全保障論には、「危険だから廃止すべきだ」という考え方だけでなく、「危険だが、必要である」という考え方も存在する。とりわけ核兵器をめぐっては、「核があったからこそ、第三次世界大戦は起きなかった」という抑止論が、長く唱えられてきた。
つまり現実には、軍拡がもたらす危険と、抑止がもたらす利益(あるいは「持たざるリスク」への恐怖)という、二つの論理が併存している。原作が一方の論理を見事に描き切ったぶん、もう一方の論理が、いっそう描きがいのある主題として残されている――そう言ってもいいかもしれない。
■ストーリー
地球防衛軍は、生命はいないと判断したギエロン星に対し、抑止力として開発した超兵器R1号を、実験として使用する。だが、その結果として、放射能の影響を受けたギエロン星獣が誕生し、地球へ襲来する。
ギエロン星獣は驚異的な再生能力を持ち、一度倒されても、よみがえる。しかも、よみがえるたびに強くなっていく。この危機を前に、開発に携わった瀬川博士は、さらに強力なR2号の使用を提案する。しかし前野博士は、それによってまた予想もしない事態が起きることを懸念し、反対する。
最終的に、R2号は使われなかった。地球を消し飛ばしかねない威力の兵器を、地球上で使うことなど、できるはずもなかったからである。ギエロン星獣は、最後はウルトラセブンによって――再生しない喉元を斬られて――倒される。そしてこの惨事を経て、地球防衛軍は、さらなる超兵器開発を見直す方向へと向かう。兵器が脅威を生み、その脅威がさらなる兵器を呼ぶ――その連鎖を断つ選択を描いて、本作は幕を閉じる。
この結末の潔さこそ、本作が名作とされる理由の一つである。そのうえで一つ付け加えるなら、瀬川博士の提案は、抑止の利益というよりは、目の前の脅威への即物的な対抗策(あるいは技術への過信)として描かれていた。現実の安全保障がはらむ「持たざるリスク」という防衛の論理は、まだそこには立ち上がっていない。だからこそ、その論理は、続く世代の作品が引き受けるにふさわしい主題として、残されているのである。
■現実世界の話
この「持つべきか、手放すべきか」という葛藤を、現実において最も劇的に体現した人物がいる。アルベルト・アインシュタインである。
一九三九年、アインシュタインは、物理学者レオ・シラードらに促され、ルーズベルト大統領あての書簡に署名した。ナチス・ドイツが原子爆弾を開発しうること、それゆえアメリカも研究を急ぐべきこと――これを訴える内容であった。この書簡が、やがてアメリカの核開発、すなわちマンハッタン計画へとつながっていく。
ここにあるのは、まさに「持たないことの危険」という論理である。徹底した平和主義者であったアインシュタインが、それでもなお開発を促したのは、ドイツが先にその力を手にすることの恐怖が、開発がはらむ危険を上回ると判断したからだった。R1号の物語では正面から描かれなかった「危険でも持つ理由」が、現実には、平和主義者の口からさえ語られたのである。
だが、物語はそこで終わらない。戦後、アインシュタインは、自らの署名を深く悔いたと伝えられる。ドイツが結局は核開発に成功しないと知っていれば、あの一歩は踏み出さなかった、と。そして晩年には、哲学者バートランド・ラッセルとともに、核兵器の廃絶を世界へ訴える宣言に名を連ねた。
一人の人物のなかに、「危険でも必要だ」という論理と、「危険だから手放すべきだ」という論理とが、時を隔てて同居している。現実の安全保障とは、この二つの論理のあいだで、揺れ続ける営みなのである。
■シン・ウルトラセブンで描いてほしいこと
『超兵器R1号』は、軍拡と超兵器開発への警鐘として、きわめて優れた作品である。兵器が新たな脅威を生み、その脅威を断つためにさらに強力な兵器が求められる――その危険な連鎖を、本作は鋭く描き切った。この達成に、私は心から敬意を抱いている。
そのうえで思うのだ。現実では、議論はそれほど単純ではない。危険な兵器が戦争を引き起こすこともあれば、逆に、戦争を思いとどまらせることもある。
もし『シン・ウルトラセブン』が「超兵器R1号」を受け継ぐのなら、私はそこに、「R1号は危険だから廃止すべきだ」と訴える者だけでなく、「危険でも、保有し続けるべきだ」と主張する現実的な防衛の論理もまた、響いてほしいと思う。アインシュタインが、平和を願いながら開発を促し、のちにそれを悔いたように――一人の人間のなかで二つの論理がせめぎ合う、その深い葛藤こそを、見てみたい。
これは、原作を超えたい、という話ではない。原作が一つの真実を描き切ったからこそ、その隣に、もう一つの真実を並べて見たい、という願いである。オリジナルは、超兵器の危険性を描いた。その達成のうえに、「それでもなお、なぜ人は危険な力を手放せないのか」という、もう一段深い問いを重ねられるとしたら――それはきっと、原作への最良の敬意の払い方になるのではないだろうか。
翳りを抱えた『シン・ウルトラセブン』にこそ、その問いは似合うはずである。
*なお、本稿は、特定の立場を主張するものではない。「危険でも持つべきだ」という考えを支持しているのでも、推奨しているのでもない。ただ、そうした立場をとる人々が現実に存在する――それも、決して少数ではなく――という事実を、作品を通して考えてみたかった。そして何より、半世紀を超えて愛される名作への敬意を込めて、その“続き”を夢想してみたかったのである。